明治の紫式部「税所 敦子 (さいしょ あつこ)」さんをご存知でしょうか?
最近
彼女の人生をしって
とても感動したので
ご紹介させていただきます。
(Wikipediaから抜粋)
だいぶ長いのですが
彼女の人生が激動すぎて
削れなかったです・・・
🔳幼少期 🔳
敦子は江戸時代後期に
京都の良家の武士である林篤国の長女として誕生。
幼少時より、心優しい上に頭が良く、父から寵愛された。
敦子が6歳の時 父が開いた歌会で
余興のつもりで歌を勧められ
臆すことなく 歌を詠んだ。
「わが家の軒にかけたるくもの巣の 糸まで見ゆる秋の世の月」
居合わせた一同は
「6歳にして歌の才能がある」と、一斉に称賛した。
父の篤国は敦子に才能を感じて、
毎朝神仏に礼拝した後、
幼い敦子の頭を撫でながら
「女ながらも、名を残せ」と励ました。
父は敦子の才能を伸ばすため
多くの歌人と交流をさせた。
ある日、敦子が近所の子供たちと遊びに出掛けた後、
子供たちと別れ、夜になっても帰宅しなかった。
両親は狂ったように敦子を捜し回った。
嵯峨野にまで足を伸ばし、
もしやと虚空蔵菩薩の祠を覗くと、
敦子が1人で鎮座していた。
両親が安堵して敦子を連れ戻そうとすると、
敦子は「私は歌の名人になりたいのです。
虚空蔵様に願いをたてれば、叶うと聞きます。
ここに一晩こもることをお許しください」と言った。
虚空蔵菩薩は知恵と学問の仏である。
仕方なく両親は門前の茶屋に敦子を託し、帰宅した。
🔳 結婚 🔳
19歳の時 敦子は交流があり
絵をならっていた税所篤之と恋仲となり
16歳年上の篤之のもとに嫁いだ。
敦子が篤之の描く絵に感動し
「こんな絵を描くことのできる人と結婚したい」
と言ったともいわれる。
夫の篤之は男尊女卑の風習の中で育った身であり、
敦子の才能を認めながらも、
無理な小言を言い、暴力も振るった。
遊廓への出入りも多かった。
敦子は理不尽な境遇に耐え、従順に使えた。
友人が心配して敦子に問うと
「夫が心を尽くして教えるのに、私が学びえないから、夫が憤る」
「私が至らないから、夫が他に心を移す」
「今は夫が『不憫な奴』と思い返してくれる日が来ることを祈っている」と言い、
その優しさで友人を涙させた。
やがて敦子の祈りは通じ、篤之の素行はおさまり、
周囲が羨むほど仲睦まじい夫婦となった。
1849年(嘉永2年)には女児の徳子が生まれた。
しかし夫の篤之は肺結核になり44歳で死去した。
敦子は生涯の独身を誓い、
黒髪を切って夫の柩に納め、歌を添えて、
紅葉の名所である東福寺に葬った。
このとき敦子は身籠っており、長男を出産したが
敦子が悲嘆で体を害していたこともあり、長男は約10日で早世した。
敦子は亡き長男を夫の墓に葬り、歌を添えた。
🔳薩摩での生活 🔳
敦子は、篤之の郷里の薩摩へ行き、
姑に仕えて
姑と亡き夫の前妻の子供も含め
子供らを育てる決心をした。
良家の武士の家に生まれ、
厳格な躾のもとに育った敦子は、
姑に仕えるのは妻として当然の勤めと考えていた。
実家の林家の両親はすでに死去していたが、
親戚や友人たちは
「薩摩は土地が辺ぴであり、
土地の者たちも頑固で、よそ者を受け入れない」と、
揃って反対した。
敦子は皆の助言に感謝しながらも、歌を残して京を発った。
旅は陸路を行き、40日を要した。
敦子は娘徳子を連れて薩摩に到着した。
税所家では、姑と亡き夫の前妻の子供が2人の継子に加えて、
亡き夫篤之の弟一家も同居しており、
10人を超す大家族であった。
姑は、京女である敦子が薩摩へ下って来ることを不快に思い、
何とか拒みたいと考えていた。
一方で敦子は長い道中、姑と継子たちのことを考え続けてきた。
出迎えの税所家一同に逢った敦子は感慨のあまり、
挨拶も無しに開口一番
「私の継子たちはどこにいますか?」と尋ねた。
姑は
「おはんのよに挨拶もできん者は居いもはん。戻りやんせ」と罵った。
敦子は取戻しのつかない失態を悔い、
自らのはしたなさを恥じて詫びた。
姑は意地悪な性格で、近隣の住民から
「鬼婆」と言われていたが、敦子は素直に仕えた。
姑は毎晩酒をたしなみ、そのつど多くの水を飲むために、
深夜から早朝にかけて必ず便所に起きた。
敦子は姑が起きる前に蝋燭を灯し、障子際に立ち、
姑の手を引いて便所へ案内し、柄杓の水で手を清めた。
結髪や食事の世話も行なった。
敦子自身が体調のすぐれない日も、これらを欠かすことは無かった。
あるとき姑は、自分の帯留めが無いと言って
「お前がしまったんだろう」と敦子を責めた。
敦子は姑が自分でしまったのを知っていたが、
優しさから敢えてそれを指摘せず、
その帯留めを持参して
「私がしまい忘れていました」と言った。
敦子の貞節ぶりには近隣の人々が舌を巻くほどだったが、
姑にはなかなか通じなかった。
敦子は、辛いときには人知れず涙を拭い、
仏の心にすがり、我が身の至らなさを省みて歌を詠んだ。
「朝夕のつらきつとめはみ仏の 人になれよの恵みなりけり」
あるときに姑は
「あんたは歌ができるそうな。これに上(かみ)を付けてごらん」
と言って、
「鬼ばばなりと人はいうらん」と下の句を詠んだ。
これに対して敦子は
「仏にも似たる心と知らずして」と返した。
「鬼ばばなりと人はいうらん 仏にも似たる心と知らずして」
(大意:人は私のことを鬼婆と噂しているだろう。
仏に近いありがたい心からと、人は知らない)
さすがに姑も、自分を指して
「仏に近い」とまで詠んだこの歌には心が折れて、
涙ぐんだ。以降、姑は敦子を可愛がり、
何事も敦子でなければならないようになった。
また、敦子は血の繋がりが無いにもかかわらず、
継子2人を我が子同然に可愛がった。
自分の服、髪飾り、日用品などをすべて、
継子たちに分け与えた。
姑が驚いて
「お前さあもまだ若いから、晴れ着も要りもそ」
「徳子のためにも取っておいた方がよろしゅうが」とたしなめたが、
敦子は「夫と死に別れた私に、派手な着物は要りません。
徳子も成長するまでには色が褪せましょう」と返した。
敦子は子供たちに、勉強も教えた。
土地柄、女に学問は不要との風習があったため、
世間に漏れないよう、勉強の時間は夜間を選んだ。
同時にしつけも行なった。食べこぼしや食べ残しの飯粒は、
湯をかけて洗い流し、自ら食した。
鼻水やごみが付いた物、
捨てられた野菜でも構うことはなかった。
自らの実践により物の大切さを教えることが、敦子の信条であった。
人々はこの行為に感嘆し、
「税所さんとこの嫁どんは阿竹如来の生まれ変わりかもしれん」と噂した。
約2年後には、敦子は税所家に欠かせない嫁となった。
敦子の有望さは城下でも評判になり、
和歌や文章を習いたいとの人々が税所家を訪れた。
薩摩の歌人である高崎正風も、その1人であった。
高崎はかつて流刑された経験を持つため、
その間の歳月を取り戻すように学問に励んでおり、
敦子に『古今和歌集』の講義や歌の添削を頼んだり、
京都の事情を尋ね、敦子は知っている限りの文学の道を指導した。
高崎が京都に上った際には、
敦子は彼をうらやみ、男子でない自分の身を嘆く歌を詠んだ。
🔳島津氏に仕える🔳
10人以上もの大家族である税所家は家計が苦しく、
敦子は生計のために、島津藩士の婦女子に習字や和歌を指導した。
城中の腰元たちには、薙刀の手解きもした。
このことで敦子は、さらに評判を呼んだ。
当時の薩摩藩主である
島津斉彬(なりあきら)は
敦子の才徳を見込み、
六男の哲丸の守役を命じた。
斉彬は西郷隆盛を見出したように、
身分に拘らず人材を登用する人物であった。
敦子はありがたがりながらも、
藩内には良い家柄の立派な女性が多かったため、
控えめで慎み深い性格から
「その任は重すぎます」と慎んで辞退した。
しかし再三にわたる斉彬の申し出の末、役を引き受けた。
しかし翌年斉彬が死去し、さらに翌年には守役をしていた哲丸も病死した。
敦子は、哲丸が死去したことをひどく悲しんで歌を詠み、
その歌は人々の涙を誘った
敦子は哲丸の死の悲しみのあまり、殉死を試みた。
しかし、かつて「鬼婆」であった姑から
「杖とも柱とも頼むお前さあに死なれては、
この婆も生きてはおいもはん」と泣きつかれた。
この姑の想いや、自分が死んでは
税所家の生活が苦しくなること、
斉彬の小姓である谷村昌武の懇願などもあって、
敦子は殉死を思い留まった。
敦子は谷村宛ての手紙に、
当時の苦しい心中をしたため、以下の歌を添えた。
「姑(おや)というしがらみなくば涙川 ありてう身を投げましものを」
姑は自らの言葉通り、死去のときも敦子の膝を枕とした。
敦子は薩摩藩主を継いだ島津斉彬の
異母弟・島津久光に取り立てられた。
彼の養女である貞姫が近衛忠房に嫁ぐ際に、その後見人として、
京都生まれで当地の習慣をわきまえている人物として、敦子が選ばれた。
敦子はすでに姑が死去したこともあって
貞姫の供として10年ぶりに京に上った。
娘の徳子が13歳であることが敦子の気がかりであったが、
貞姫もまだ17歳であり、貞姫から
「遊び相手の小間使に加えてほしい」との温情により、
母娘共々の上京であった。
京では、貞姫がまだ年少であったこと、田舎育ちであったことから、
敦子は貞姫に書道、和歌、『源氏物語』などの古典文学などを教えた。
これにより敦子の名声は高まり、公家の姫たちも教えを受けに集まった。
その1人である女性が、後の明治天皇の皇后(昭憲皇太后)になることなど、
敦子は知る由も無かった。
貞姫の夫が死去したのち(明治6年)
敦子も貞姫に従って東京市麹町(後の東京都千代田区麹町)へ移住した。
未亡人となった貞姫は、敦子を頼りにした。
敦子も夫と死別した身を、光蘭院に重ねた。
敦子が幼少時より抱いていた仏教への信仰心は、この頃は特に深くなり、
父の師である福田行誡について仏道の修行にも努めていた。
敦子は貞姫と共に仏道や和歌の研究などに心を入れ、余生を静かに送ることを決意していた。
🔳宮中への出仕 🔳
薩摩時代に教えていた高崎正風により、宮中への出仕を推薦された。
身分の低い敦子のような人物が宮中に出仕することは、
異例のことであったが
これにはかつて京で敦子に教えを受けた明治皇后の強い希望もあった。
また、1日も欠かさず歌を詠んでいた明治天皇が
「宮中に歌の相手のできる女官がおらずに皇后が困っている」として、
歌の出来る人物を捜していたことなどがあった。
敦子は斉彬のとき同様、
再三にわたって辞退したが、
高崎の説得により出仕することとなった。
宮中の女官となった敦子は、
明治天皇と皇后の歌の拝写など、
文学に関する勤めをつかさどった。
その傍ら、下級女官の歌文の指導も行なった。
さらに敦子は大任のために、
天皇と皇后を始め国民の安寧幸福を祈ること2時間、
その後に『観世音菩薩普門品』の浄写を日課としていた。
そのために敦子は多忙を極め、
朝から夜までほぼ休みが無いほどだった。
その後、武家生まれの女性で初となる権掌侍に抜擢された。
敦子の貞女ぶりは、宮中でも変わることは無かった。
毎月1日、15日、28日の3日は必ず水行をし、
火の物を断って、天皇と皇后の安泰を祈った。
それだけに天皇と皇后は、敦子を厚く信頼し、寵愛した。
敦子が時折り給仕をすると、
「婆よ、この肴をわけて遣わすから、お前のを持って参れ」と言って
食事を分け、敦子を感激させた。
皇后は、かつて娘時代に教えを受けた敦子との再会を非常に喜んでいたが、
女官たちの前では自身の身分を心得、
その心中を決して表に現すことは無かった。
皇后が華族女学校へ贈った「金剛石」の歌は、
後に文部省の歌として日本全国の子供に歌われ、
琴歌としても親しまれたが、実は敦子の作案だったともいう。
敦子は忠勤のみならず、勉学もおこたることは無かった。
宮中ではフランス語ができなくては不便とのことから、
50歳過ぎにしてフランス語の勉強に励んだ。
フランス語を憶えると、英語にも取り組み、
そのどちらも会話に不自由しないほどの学力を身につけていた。
そのような敦子に対し、他の女官たちからの風当たりは強かった。
公家出身の女官たちに対し、敦子は武家出身の上に高齢のためであった。
敦子の夫が薩摩藩士であり、
薩摩の大久保利通らが都を東京に移したことの逆恨みや、
敦子の楓内侍」の源氏名が皇后からの直々のものであることも、
女官たちの反感を呼んだ。
しかし敦子の忠義ぶりに、他の女官たちも次第に感化され、
内儀の風習もいちじるしく改まるに至った。
🔳晩年 🔳
晩年、敦子は病気でひきこもった。
明治天皇は高崎正風を通じて、
「老体の身、毎日の出仕は難儀であろうから、
これからは随意に努めよ」と伝えた。
しかし敦子は
「両陛下の御尊顔を拝し奉るのが何よりの楽しみでございます。
それでは生きている甲斐がございません」と泣いたので、
天皇はそれを聞き「今まで通りに勤めよ」と返した。
敦子はさらに体調を崩した。
天皇からは「体を労わって長生きし、女官の師範として励むよう」と、
御下賜金と共に、月の内の何日かを自宅で静養する許しが出た。
敦子はその言葉に甘えて、東京市牛込区砂土原町の家で、静養に努めた。
この家での生活は質素で、
庭に何種類ものカエデの木を植えることが唯一の贅沢だった。
カエデは亡き夫の篤之が好んだ木であった。
敦子はカエデに彩られた庭を眺めつつ、
かつて夫と共に過ごした日々を偲んで、歌を詠んだ。
「たが宿のこずえのなれてけふもまた 花なき庭に花のちるらん
我が庭の梢はなれて散る楓 花なき庭に紅(べに)しきそめぬ」
敦子は長女の徳子に看取られながら死去した。
同日に正五位が贈位された。
明治皇后は敦子の死去を嘆き、
手許金をもって青山霊園に墓碑を作らせた。
🔳評価 🔳
明治時代前期に御歌所に属した歌人の中でも、
最も世評が高かった歌人が税所敦子である。
桂園派(香川景樹とその門流)の中でも随一の高手と呼ばれており、
明治20年代の歌壇を席巻した
「明治六歌仙」の1人にも数えられ、
人々の尊敬を集めた。
敦子の歌は女性らしく、優雅で清々しく、
抒情的なものが多い。
歌の大半が題詠(前もって決めた題について作った歌)であることも特徴である。
一見すると旧派和歌の伝統にあるように見えるが、
リアルな情景の感覚に富んでおり、
歌の中には敦子の近代的な精神が現れている。
晩年には「明治の紫式部」とも呼ばれて、讃えられた。